とんかつにっき|うつ・パニック障害18年生

とん活(お布団で過ごす時間をもっと楽しく!活動)はじめました。

写真酔い

私は写真が嫌いだ。

正確に言うと、写真を撮られるのが嫌いだ。

 

こんなことを宣言している時点でお察しだが、私はお世辞にも美形とは言えない類の人間である。それについては他でもない自分が一番良くわかっているのに、写真はその事実を何度でも何度でも、これでもかこれでもかと頼んでもいないのに教えてくれる。これが写真嫌いの理由の一つであることは間違いない。だが、根本的な原因はおそらく他にある。

 

写真の中で私だとされている人間は、本当に私なのだろうか。

 

これは私が幼い頃からずっと感じ続けている違和感である。なるべく目立たない場所でぎこちなく笑う彼女は、確かに輪郭を持ってこの世界に存在している(ように見える)。どこまでが自分で、どこからは自分ではないのか。世界と自分との境界線は曖昧で絶えず揺れている。その揺れに私は酔っているのだと気付いた瞬間、吐き気にも似た猛烈な不快感に襲われる。

 

私はこの症状を「写真酔い」と名付けることにした。三半規管が弱い私は酔い止め薬が手放せないが、これが写真酔いにも効いてくれたらいいのにと思う。

 

現在は誰もがカメラを携帯する恐ろしい時代である。写真撮影から逃れることはもはや不可能だ。しかもそれは多くの場合、唐突に訪れる。「こっち向いてー!」とカメラを向けられたら、説明のつかぬ奇病を理由に逃げる猶予などありはしない。センターを外したポジションを素早く確保し、自分の中では幾らかまともと思われる表情を不器用に作り、カチンコチンになって写真に収まる。自撮り文化が浸透した世代をギリギリ外して生まれて来られたという幸運に、神のお慈悲を感じずにはいられない。

 

そんなわけで、私は遺影にできるような写真を持っていない。私と思われる人の写真が据えられた祭壇を想像すると憂鬱である。家族や縁のあった大切な方々が、その “ 遺影 ” に向かって手を合わせたり、時には落涙したりするのかも知れないと想像すると、いたたまれない気持ちになる。某所にあるという遺影専門写真館を利用するのも手だが、そもそも私が生前に忌み嫌いひたすら恐れていた写真を、わざわざ掲げる必要があるのだろうか。

 

額縁に入った何かがないと格好がつかないと言うのなら、いっそ記号か何かで済ませて欲しい。例えば最近見つけたこれ →「 ❉ 」“ BALLOON-SPOKED ASTERISK ” という記号らしいが、お花みたいでとても可愛い。

 

「昔、nemoって人がいたんだけど、どうしても顔が思い出せないんだよなぁ」と言われるのが私の理想だ。人として甚だ勝手過ぎるかも知れないけれど。